日本国憲法の出自
はじめに
これからご紹介するお話はすべて、私が人生の師とするAさんから伺ったものです。
わたしにとってこれらのお話は、毎年「憲法記念日」を迎えるたびに思い出されるものなのですが、いわゆる「日本国憲法」について考えるうえで、大事なことがいくつも含まれているようにも思えますので、今回思い切ってご紹介することにいたしました。
ただ、Aさんは何分ご高齢なので、ご本人も「記憶があいまいなところがある」とは言われます。
しかし、その話しぶりや話の内容はまだまだいたって明晰であり、さらには伺うたびに新しいお話が出てくるといった具合なので、わたしの方は驚かされてばかりいるのですが、いつもご自分で経験されたことや考えたことを中心にお話ししてくださいます。
そのため、果たしてその内容の「真偽」について誰かに問われたとしても、わたしとしては「確かめる術(すべ)がない」というのが実情なのですが、ただ個人的にはこれまでのAさんの生き方や人柄から、お話しされることは「真実」であると確信しております。
あとは、このお話を読まれた方それぞれのご判断にお任せいたしますが、きっと読まれているうちに「真偽はどうなっているのか」といった思いなどは超えて、色々と気付かされたり、啓発されることが出てくるのではないかと思います。
もしそうなれば、わたしにとっては何よりもうれしいことですので、少しでもご興味がございましたら、ぜひご一読をお願いいたします。
行きたくもなかったのにアメリカへ
昭和48年、行きたくもなかったのにアメリカ国務省からの招待でアメリカへ行くことになったんです。
そもそも、わたしが京都の○○センターの連中になぜか見込まれてしまったことが発端でした。
わたしは講義でよくそのセンターを利用していたので、その時に目を付けられたんでしょう。
興味のないアメリカなどには本当は行きたくなかったんですが、そこの連中がしつこくて、熱心に勧めるものだから、つい行くことになってしまったんです。
わたしのビザまで勝手に作って持ってきたんです。
どこから手に入れたのか、ちゃんとわたしの写真まで貼ってありましたよ。
それで「これは12階級あるうちの最上級のものだから」などと言うんです。
それでしぶしぶ行くことにしたんです。
「日本国憲法」の原案を作った占領軍の中の一番のインテリは
ただアメリカに行ってやるかわりに、わたしが会いたい奴には全部会わせろと言ったんです。
連中はその条件を飲まざるを得ませんでした。
連中にとっては、わたしには是非アメリカに行ってもらわなければならなかったし、そうしないと彼らの面子が立たなかったんでしょう。
それで実際に向こうでは何人かの人に会ってきたんですが、その中のひとりがマクネリーでした。
わたしはそれまでマクネリーのことは知らなかったんですが、アメリカに行くんであれば「『日本国憲法』の原案を作った奴に会わせろ」と連中に言ったんですね。
そうしたら「日本国憲法」の原型を作って日本を占領統治しようという案を作った占領軍の中の一番のインテリは、メリーランド大学のマクネリー教授だというんです。
いうなれば、彼らはわたしがする質問に対しては本当のことを答えなければならない羽目に陥っていたわけで、それで「日本国憲法」の原型を作った張本人のボスはマクネリーだと白状せざるを得なかったんでしょう。
それでメリーランド大学までマクネリー教授に会って行ってきたんです。
「日本国憲法」の実体はあくまで「占領規範」
マクネリーには「日本国憲法」のこともそうなんですが、その他にも確認しておきたいことがあったので、むしろそちらの方の話を主にしたと思います。
「日本国憲法」については、彼に「本当はどういう気だったのか、『憲法』は持って帰ったことにしろ」と言ったんですが、彼は「今でもあれを使っているという前提で話をしているとは思いもよらなかった」と、「日本国憲法」がまだ日本で使われていることは知りませんでした。
わたしは「お前さんのところが『占領規範』に『日本国憲法』なんていう名前を付けるから、いまだにややこしいことになってるじゃないか」と文句を言ったんですが、彼は「あなたの言う通りだ。ただそうした方が万事都合が良かったので。占領中はわずかなスタッフで日本を統治しなければならなかった。あれが『占領規範』だと言われれば、確かに中身はそうだ」と。
「確かにあれは占領中の『規範』であって、それを『憲法』としていまでも日本人が使ってくれているというのは、わたしとしてはもちろんうれしくてありがたいけれども、占領が終わった後もそれでどうこうしようかとか、そういうつもりでは全くなかったし、いつまでも万年これでやらなきゃならんとかそういうのではなくて、あくまで占領中のことだけを想定していたので。だから日本人に『憲法』としてずっと使ってもらうつもりで作ったのではもちろんなくて、あくまで占領をうまく遂行していくために作ったんだ」と言っていました。
まあ、彼らにとってみれば当然のことをしたまでで、「その後のことまでは責任持てないよ」というのが本音なんでしょうけれどね。
占領が終わった時点で「日本国憲法」の実体はなくなっている
そうであろうということは大体分かっていたので、「日本国憲法」についてはその程度しか話をしませんでした。
まあ、あれをいまだに「日本国憲法」として使っている日本人がどうかしてるんですよ。
あれの「実体」というのは、あくまで彼らが占領をうまく遂行するための「占領規範」に過ぎず、占領が終わった時に彼らが持ち帰っているんですから。
だから「実体がない」ものなんです。
それを「『日本国憲法』と書いてあるから『日本国憲法』だ」と信じ込んでいる日本人がどうかしてるんですよ。
「法」の観点から言っても、ありえないことなんです。
それを「憲法改正」がどうだのこうだのというのは、わたしにとっては「何をバカなことを言ってるんだ」ということになるんです。
あれは「憲法」でも何でもなく、いまでは全く「実体がない」ものなんですから。
「憲法学者」なんていうのはいったい何をしてるんでしょうかね。
「ポツダム宣言」は対等な「契約」の申し込み
マクネリー教授と「日本国憲法」の話をする前にしたのは「ポツダム宣言」(ベルリン時間の7月26日午後9時20分に発表された)についての話です。
彼らが「ポツダム宣言」をどういうつもりで出したのか、条文から読み取れることがあったので、彼にそのことを確認したんです。
そうしたら彼も「その通りだ」と。
そもそも彼らの考え方というのは、誰かからお金を借りたとしても、お金を貸す方も借りる方も「『契約』の当事者としては『対等』だから『契約』が成り立つんだ」という考え方なんです。
お金を借りてやってるから、借りてやっているこちら側がいるから「契約」が成り立つんだと。
戦争の時も同じで、負けた方の我々がいたから、勝った方のお前たちがいて「契約」が成り立つんだという具合なんです。
要するに、彼らには戦争に勝った方だから、負けた方だからという意識はないんですよ。
だから「ポツダム宣言」を発する時に、これは「『契約』の申し込みだよ」という発し方をしているんです。
実はそういう申し込み方をするほかにも、違う申し込み方がいくつもあるんですが、それを彼らは「『契約』の申し込みでいいよ」という申し込み方を選んだんです。
つまり「対等な『契約』をしようではないか。それで対等な『契約』にして『国際条約』を両方で決めようじゃないか」ということだったんです。
すると、そこでは両者が「対等な当事者」になるから「契約」が成り立つのであって、戦争に勝った方だの負けた方だのという関係はないんです。
それで「国際条約」を作ろうとしたんですよ。
独立国家の基本的な権利である「戦争権」
なぜかというと、日本が戦争をした頃には「戦争権」というのは独立国家の基本的な権利であって、戦争をすることは国家としての正当な権力行使だとされていたんです。
しかも、ジュネーブの平和条約を読めば分かるんですが、「戦争権」については「戦争をするよ」と宣戦布告をしてから戦争しなくてはならないとはなっていないんですよ。
そこには「いきなり戦争行為をやっても良い」ということが書いてある。
そして、もしそれが戦争行為であるかどうかが分からない時には、「これが戦争である」ということを規定するための「戦争の定義に関する条約」というジュネーブ条約があるんです。
つまり、どういうものを「戦争」とみなして良いのか、独立国家が勝手にやっても許されるものとしての「戦争」というのは、どういう場合のことについていうのかなど、「戦争」というものを定義するための条約がジュネーブ条約にはあるんです。
それに該当する場合には、宣戦布告がなくても「戦争」だとみなして良いということになるんです。
「戦争の定義に関する条約」というジュネーブ条約には
その条約にはいくつか例が挙げられているんです。
例えば、何キロ以上離れた場所から相手の領土に大砲を打ち込んだ場合には「戦争」とみなして良いといったようなものです。
そういった例に該当する場合には「戦争」とみなしても良く、国際法でいうところの戦争行為を彼らは独立国家として行ったんだという風に認定しても良いということなんです。
つまり「戦争」は黙って始めてもいいんですよ。
黙ってやってもいいけれども、そういう行為を黙ってやった場合には、これは国際法上の「戦争」を、独立国家が国家の主権行為として行ったんだという風に国際法的に認定することになるよ、という条約なんです。
そのことをお互いに了解しようねという条約なんですよ。
だから真珠湾攻撃でも何でもやったって一向に構わないんですよ。
真珠湾攻撃をやったのが宣戦布告が届くちょっと前だったからけしからんということはないんです。
ないからあんなことで戦犯になった奴は1人もいないんですよ。
国際条約で認められていることなんですから。
だから「宣戦布告の前に真珠湾を攻撃しかけてけしからん」というのは戦争論でもなんでもないです。
素人が勝手にいちゃもんをつけているだけで、それは当時の国際法でちゃんと認められていることなんですから。
そういう戦争の仕方が卑怯かどうかは別にしましてね、一向に差し支えないわけです。
宣戦布告の文書を相手に申し渡す前だったとか、文書を差し渡すのが少し遅れたというのはそれは一向に構わないことなんですよ。
つまり「戦争」の定義に関する国際条約上は、主権行為というのは黙って攻撃を仕掛けるとかね、宣戦布告の前に先につぶてを投げておいてから始めるとかいうのは全くの自由なんです。
「ポツダム宣言」の真意を汲むことができなかった日本
向こうとしては、「ポツダム宣言」を発した時に「もうこの辺で止めようじゃないか」ということだったんです。
結局上陸してもずいぶん多くの死傷者が出ることになるでしょうし、そういうことが背景にあったでしょうが、それで「対等な『契約』を結ぼう」と申し込んできたということなんです。
だから、その申し込みをこちらが受け入れますよとか、どうとかこうとか言えば、それでもう対等な交渉が開かれることになったんです。
それを日本は向こうの真意を汲むことができずに、ただ黙殺してしまったんです。
日本は勝ったとか負けたとかばっかりこだわっていたから。
本来は、戦争を止める時にも、どちらか一方からでも申し込みがあれば、それが対等な「契約」の申し込みになるので、「それじゃあ『契約』の申し込みだから同じテーブルの席に着こうか」とか、そういうことを判断すればいいんです。
そこは勝ち負けに関係ない対等な席になるんですよ。
つまり「ポツダム宣言」を発した時も、「これは対等な席に着いて話し合いをするための申し込みなんだよ」ということだったんです。
しかも、日本は勝ち負けばかりにこだわる国だから「自分たちは戦争に負けた国なので、同じ席に着いたら勝手なことをばかり言われるのではないか」ということを心配する向きがあるかもしれないし、そういう風に誤解されると、こちらとしてはせっかく申し込みをしても意味がなくなってしまうので、そう誤解されないように…ということまで伝えてきてるんですよ、あの申し込みでは。
「我々は右条件より逸脱することなかるべし」という条文の意味
「ポツダム宣言」にはこう書いてあるんです。
「我々は右条件より逸脱することなかるべし(五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ:吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ)」と。
本当は「契約」の申し込みに、後からそんなことを重ねて書く必要は全くないんですよ、普通は。
普通の申し込みでいいわけなんです。
それを日本に誤解されないように「席に着いてから、こちらから何か新しい条件を出したりすることはありませんよ。我々が出す条件はこれだけですよ。この条件だけで申し込みをするんですよ」ということをわざわざ追加して書いてあるんです。
「ポツダム宣言」は「英米法」に基づいて書かれたものなんですが、この一文は本来「英米法」では書かないものなんです。
普通の申し込みだけでいいんです。
それを、彼らは日本は「英米法」の国じゃなくて「ドイツ法」の国だということを知っていたからだと思うんです。
日本人の中に戦争をもっと続けたいという奴がいて、あとになってから「いやー日本は『ドイツ法』の国で『英米法』のことをよく知らなかったから」ということを言い訳にされて、それで席につかなかったんだということになると困るので、我々は「英米法」の国だから本来はそんなことを言う必要がないのは分かっているけれど、そういう言い訳に使われると困るから、我々としては本当に一生懸命その席に着きたいと思っているんだから、この条件のことだけしかやりませんから、そこの席に着いてから新しい条件を出すことは一切ないんですよ、ということを伝えたくて、本来は「英米法」では書かない余計な一文を入れたんです。
日本に拒否されることを恐れて、念のために二重に「我々は右条件より逸脱することなかるべし」ということを付け足したんですよ。
帝国大学は「ドイツ法」が主流だった
つまり、日本人は戦争の「勝ち」「負け」だけにこだわって、日本だけの狭い了見で物事を判断してしまい、相手側の理屈である「英米法」の考え方で「ポツダム宣言」の真意を受け止めることができなかったんです。
これは、日本側に本当に優秀な人というのがいなかった、ということにもなるんですが。
実は日本にも「英米法」の専門家がいなかったわけではないんです。
東京帝国大学には末延三次さんという優秀な学者さんがいました。
彼には分かっていたんだと思いますが、当時の帝国大学は「ドイツ法」が主流だったんですね。
法学部のお偉いさんはみんな「ドイツ法」だし、法学部を卒業して高等文官試験に受かって役人になった連中も「ドイツ法」しかやってなかったというのが多かったんでしょう。
それも原因だったと思うんです。
それで、日本国政府には「ポツダム宣言」の真意を理解できる人間がいなかったんだろうと。
これこそ「成績主義」のなれの果てであり、「権威主義」の弊害なんです。
本当に優秀な人材がいたとしても、表に出てこれなくなってしまう。
要するに帝国大学で大学に残って教授になろうというような連中は、わたしたちの時代から、特に成績が良かった連中なんですね。
だからろくな奴がいないんです。
「成績主義」というのは「無責任」ということ
旧制の高等学校では成績の良い奴っていうのは馬鹿にされてましたから。
他にやるべき大切なことがたくさんあるはずなのに、何でそんなことに時間をかけて良い点をとってるんだと。
そういう奴は、要するに物事の道理が分からない一本足りない奴だということになるんです。
だから高等学校ではすべての科目で及第点ギリギリっていう奴が尊敬されていました。
我々の中では「秀才」っていうのは「バカ」の代名詞でしたから。
そういう連中が教授になったりするからろくでもないことになる。
それに「成績主義」っていうのは「無責任」なんですよ。
上にいる者に見る目がなくて、それで成績が良いからいいだろうと引き上げる。
成績が良ければ文句が出ないだろうということで、その人の能力に関わらず引き上げる。
成績を言い訳にして、責任逃れをしているんですよ。
だから成績が良いだけで引き立てるっていうのは「無責任」だというんです。
本当は成績が良い奴ほど気をつけなければならないんです。
そういう連中に限って「○○でござる」って能力もないのにふんぞり返って偉そうにしたりするから、そういう連中が集まると「権威主義」に陥ってしまうんです。
本当のエリートというのとは全く違うんです。
「戦闘」に負けたことは交渉カードの一枚に過ぎない
それで「ポツダム宣言」の真意を汲み取れずに、日本はそれを黙殺するという、一番やってはいけない対応をしてしまったんです。
そもそも何で「宣言」にしたのかということもあるんですけれどね。
あちら側の考え方では、「ポツダム宣言」というのはあくまで「契約」の申し込みであって、まずはお互い対等な席に着きましょうということだったのにも関わらず、さらには「戦争」において実際の「戦闘」というのは全体の一部であって、「戦闘」に勝ったとか負けたとかいうのは、交渉おいてはただ一枚のカードに過ぎないものなんです。
それにも関わらず、「日本は戦争に負けたから相手の言うことは全部聞かないといけない。『無条件降伏』だ」などと勝手に思い込んでしまったんです。
それに、そもそも「ポツダム宣言」では「政府の責任で軍の処理をお願いする」というだけで、占領することまでは要求していません。
それを「『ポツダム宣言』を受諾したから、すべてアメリカの言う通りにしなければいけないんだ」などと、日本政府はアメリカが初めは求めてもいなかった自国の統治権までを、自らアメリカに委ねるという愚行を犯してしまったんです。
「ポツダム宣言」への対応を誤ったことこそが戦後の悲劇の根本原因
これでは彼らが日本人に対して「お前たちアホか?」と思うのも無理はありません。
「せっかく文明国として対等の評価と待遇をしてきてやったのに、それで対等な『契約』の申し込みまでしてやったのに、お前たちはそんなことも分からないバカだったのか」という気持ちになるのも分かります。
そんなバカな連中だったら、徹底的にバカにして取るものは取ってやろうじゃないかと。
実は敗戦よりも、日本政府が「ポツダム宣言」への対応を誤ったことこそが、戦後の悲劇の大元の原因なんです。
さらにまずいことに戦後日本においても、この根源的な失敗に気づく人が、まずいなかったんだろうというのがわたしの考えです。
そして、そういったまずい対応があったうえで初めて「日本国憲法」という話が出てくるんですよ。
つまり、戦後の色々な問題の原点は「ポツダム宣言」の処理に失敗したことであり、「日本国憲法」の問題はそれから派生したもののひとつに過ぎないということです。
だからマクネリーに「ポツダム宣言」の条文に込められた彼らの「真意」というものを、「法」の観点から確認したかったんです。
そうしたら彼も「その通りだ」と答えたんです。
ただ、どうもわたしのあとにマクネリーに文句を言いに行った奴もいないようなので、困ったものです。
「日本国憲法」をはじめ、戦後の日本の安全保障等の諸問題を正しく処するためには「ポツダム宣言」の処理に失敗したことを、まずは日本人が広く認識することが必要なんです。
その上で「なぜそうなったのか?」「そのためにどのような不具合が出てきたのか?」についてしっかり検証し、「正すべきところは正す」ということが、実は「戦前」「戦後」を超えて日本人が取り組まなければいけない大きな課題なんですよ。
今日出海さんから伝えられた話
私と随分交流があった今日出海(こんひでみ)さんからも、憲法についてこんな話を聞いたことがあります。
今さんというのは面白い人でね。
とにかく話が面白かった。
いつもどこまでが本当でどこからが作り話なのかわからないんですけれど、といかく話が面白かったんです。
今さんがしてくれた面白い話はたくさんあって、逸話もたくさんあるんですが、その中のひとつで、いま考えてみると、今さんにしてみれば是非わたしには伝えておきたかった、伝えておいた方がいいだろうということだったのかもしれません。
今さんは初代文化庁長官になった人ですが、そもそも幣原(しではら)内閣の時に文部省に芸術課を作ることになって、「それじゃあ誰に任せようか」という時に「それなら今さんがいいんじゃないか」ということで初代芸術課長になっているんです。
その時、今の官房長官にあたる官房書記官長(1946年1月13日~5月22日)をしていたのが楢橋渡(ならはしわたる)さんだったんですが、今さんと楢橋さんはフランスで3年間一緒に下宿していたことがあるんですね。
今さんも変わっていましたが、この楢橋さんという人も変わった人だったようです。
幣原さんが総理大臣になる時に「楢橋が一緒にやってくれるんだったらやってもいい」ということだったそうで、でも本人と連絡が取れない。
楢橋さんはどっかに行ってしまっていて、まったく連絡が取れなくなっていたというんです。
それでラジオの尋ね人番組で呼びかけたら長野の疎開先にいて、それで呼び出されたという人です。
官房書記官長室で「日本国憲法」の翻訳作業をさせていた
今さんと楢橋さんはそんな仲だったものですから、今さんが芸術課長になった時には何かと頼みに行ったそうなんです。
それで今さんが芸術課長になったのはいいけれど、「じゃあ手始めに何をやろうか」と思案していたところ、なにせ戦後で物がなかった時代でしたから、芸術をやるとはいってもまずは紙が必要になるだろうけれどそれがない。
それじゃあ、まずは紙を調達しなきゃならんということで、それで楢橋さんに頼みに官房書記官長室に行ったそうなんです。
そうしたら楢橋さんが「ちょっといま忙しくて大変なんだ」と。
「紙のことは分かったから、あとで何とかするから、しばらく待ってろ」と言われたそうなんです。
「シー」というように鼻の前に指を立てて「実はコレなんだが、上からの命令で学者たちに部屋で憲法の翻訳作業をさせているところなんだ。1週間で仕上げなきゃならんということなんで」と。
その時、官房書記官長室に学者たちを集めて、GHQから渡された「日本国憲法」の英文を急いで日本語に翻訳させていたというんですね。
おわりに
「はじめに」において、私はあえて「いわゆる『日本国憲法』」と表記しました。
今回のお話を読んでいただいた方にはきっとその理由がお分かりになったのではないでしょうか。
しかし「日本国憲法」は、日本の統治における最高法規としていまなお「存在」しております。
そして、アメリカによる占領統治が終わってから70年近く経つというのに、日本は内政面においても外交面においても、国家レベルにおいても民間レベルにおいても、「独立国家」にはなりえていません。
そのことを象徴する存在が「日本国憲法」であることは間違いないでしょう。
わたしたちを含め、「日本国憲法」を結果的に放置してきた戦後日本人の責任は非常に大きいと思います。
いわば先人たちが積み重ねてきた精神的、物質的「遺産」を食いつぶすようにして、ようやく「いま」に至っている感もいたします。
ようやく近年「憲法改正」の機運が高まってきたとはいえ、いまだ本質的な議論がなされているとは到底言えないでしょう。
それゆえわたしには「憲法改正」の掛け声がむなしく響くのです。
そもそも「『憲法』とは何なのか」、「日本の『法』とは何なのか」について、明治維新以降「放置」してきた問題の原点に立ち戻り、日本人にとっていわば血の通った「法」を自分たちで表わすことこそが、いま本当に必要とされていることなのではないでしょうか。
しかし日本の安全保障については、日ごとに情勢が差し迫ってきており、「待ったなし」の対応を迫られていることも事実でしょう。
ではどうしたら良いのか。
Aさんは以前こんなことも言っておりました。
「戦後日本人は『日本国憲法』を、実質的には『都合の良いところは利用する』というように、『慣習法』的に運用してきたんです。『憲法』が禁じているはずの自衛隊の存在や私学助成金が許されていることが、その証拠です。『憲法』では禁じられているけれども、『それで良いだろう』と日本人が認めて『合意』が形成されているからそうなっているんです。そのことこそが大事なことであり、それこそが日本人にとっての『法』になるんですから。だから建て前は『憲法』であっても、実質は『慣習法』みたいなものなんです。『憲法改正』だとか何だとかいう前に、内閣総理大臣か誰かが、はっきりそのことを内外に宣言すればいいだけのことなんですよ」と。
わたしにとっては今回ご紹介したお話が、みなさんにとって少しでも、いわゆる「日本国憲法」について、さらには「日本の『法』」について考えるきっかけになれば幸いです。