「ポツダム宣言」と日本の「法」
以前、ポツダム宣言の時にね、連合国の連中がそこに込めていた「ポツダム宣言の意図」について、当時の日本政府や学者などの指導層の連中がいかに無知だったか、そのためにポツダム宣言が意図するところを読み取れなかったんだということをお話ししましたね。
日本は「ドイツ法」が主流でしたから、「英米法」の考えで書かれた「ポツダム宣言の意図」を読み取ることができなかったんですね。
東京帝大には「英米法」をやっていた末延三次さんがいて、とても優秀な方ではあったんですが、やはり日本では「ドイツ法」が主流でしたから、まあ権威主義がはびこる中では色々と難しかったのかもしれませんね。
いずれにせよ、当時の日本の連中は「ポツダム宣言の意図」を全く理解できていなかったんですね。
そうなってしまった原因は何かといえば、まあ戦争末期の動転はあったにせよ、ただただ「無知」であったことに尽きるのではないかと思っています。
まあ、当時は「国體の本義」がどうだとかこうだとか幼稚なことばかりやっていて、基本的な学問、社会学の洗礼を受けてなかったということではないでしょうか。
当時の日本は「中身のない精神主義」ばかりでね。
ポツダム宣言は「直接方式」による「契約の申し込み」
日本の降伏がポツダム宣言の受諾によるものであったことは疑いようのない事実なんですが、このポツダム宣言は、日本国および日本国政府に対して「降伏条件」を提示した文書であり、その受諾によって、国際法の一般規範に則った「国際協定」になることを実体とするものだったんです。
この共同宣言自体の法的性質がどういうものだったのかについて、もう少し詳しくお話しすれば、これは結論からいうと、ポツダム宣言は法的には日本との戦争の終結を目的とする「終戦協定」という性質を持つ「契約の申し込み」に他ならないもので、日本の受諾によって国際法の一般規範に則った国際協定が成立することになるという、そういう意味を持った行為だったんですね、この宣言自体が。
そして、この「ポツダム宣言の意図」を理解するための前提として押さえておかなければならないのが、ポツダム宣言を出すにあたって連合国が選んだ「契約の申し込み方式」についてなんです。
実際にこの時連合国が選んだやり方は「直接方式」というんですが、つまり連合国としては、この方式を採る以外にも別のやり方があったということなんです。
日本としてはどうしてもこの点については押さえておく必要があったんですがね。
そして「連合国がなぜ別のやり方でなくて『直接方式』を選んだのか」ということについて、よくよく考えなければならなかったのに、当時の日本の連中はそういうことについて全く「無知」だったということなんです。
しかも、この状況は今に至るまで全く変わっていないのかもしれません。
私の他にこのことを指摘している人を知りませんのでね。
「直接方式」と「間接方式」
実際に「直接方式」でないやり方に「間接方式」というのがあるんです。
例えば、映画の看板を出して「今こういう映画をやってますよ」というのは、これを法律上は「申し込みの誘因」といいます。
「申し込みそのもの」ではなくて「申し込みを誘うためのもの」だということですね。
あとは、それに応じてお客が入場券を買うかどうかということになるんですが、それでお客が入場券を買えば、それがすなわち「契約の申し込み」「契約の申し入れ」になるんです。
つまり映画の看板を出すというのは、お客に対して「申し込みの誘因」を示し、これに応じてお客が入場券を買って「契約の申し込み」をしてくるかどうかを待つということであり、これを「間接方式」というんですね。
しかし、連合国は日本に「申し込みの誘因」を示し、それに応じて日本が入場券を買うといったように、「契約の申し込み」つまり「降伏の申し入れ」をしてくるかどうかを待つという「間接方式」は採らなかったんですね。
連合国はこの多様性に富む「間接方式」を採らなかった。
日本に「契約の申し込み」をさせるための「申し込みの誘因」を示す「間接方式」を採用せずに、連合国はポツダム宣言を発するという「直接方式」を採った、ということなんです。
「直接方式」を採って、いきなり日本に具体的諸条件を示して直接受諾を迫ったんです。
連合国が「直接方式」を選んだ意図
つまりね、連合国から色々な申し込みの仕方があるよと、立て看板のようなものをいっぱい示して、それに応じて日本から申し込みをやらせて、それに対して連合国が「いやこれはああだ、こうだ」という風に進める交渉のやり方もあったはずなんですが、そんなものは全部ふっ飛ばしちゃって、もういきなり「直接方式」で条件だけを示すというやり方を連合国は選んだんです。
つまり、連合国としては「もう『直接方式」以外の方式を採るような悠長なことはしてられない」と判断したからなんでしょう。
だから、日本としては「これは連合国としてはどうしてもここでポツダム宣言を日本に受諾させて、これで戦争を終わらせようという意図なんだな」という風にすぐに受け止めて、これをすぐに受諾しなければならなかったんです。
それだけ連合国としては、とにかく一刻も早く戦争を終わらせたかったということであり、実際この宣言からは「どうしてもこれで戦争を終わりにさせるんだ。日本の意思など聞く必要はない」という意図がはっきり読み取れるんですから。
これ以上戦争が長引くと、日本本土での決戦を覚悟しなくてはならなくなるし、そうすると双方にとってこれまで以上にたくさんの犠牲が出るだろうし、当然ながら戦費もかさむし、戦争を続けるうえで国民の理解を得るのも難しくなってきているし…などなど、連合国にとって抜き差しならぬ、差し迫った事情があったということなんでしょう。
いずれにせよ、日本としては「ああこれは『直接方式』でやってきたな。連合国は否応なく戦争を終わらすという決意でやってきているんだな」という風に読むべきだったのに、日本はそういう受け取り方をしなかったんです。
そうしなかった証拠に、日本政府は「これを無視する」という談話まで出しているんですから。
これは本当にまずかった。
日本は一番やってはいけないことをやってしまったんです。
「我等の条件は左の通り、我等は右条件より離脱することなかるべし」が意味すること
さらにポツダム宣言には「これは『直接方式』なんだよ。我々には戦争を否応なく終わらせる決意があるんだよ」ということを、どうしても日本に伝えるべく、ダメ押しの文言まで入れてあるんです。
それが「我等の条件は左の通り、我等は右条件より離脱することなかるべし」というものです。
これは紛れの余地なく周到に準備された文言に違いないんです。
というのも、そもそもポツダム宣言は「英米法」の考えで書かれたものなんですが、この文言は本来、「英米法」では絶対に書かないものなんです。
それでもポツダム宣言にこの文言を入れてきたというのは、日本は「ドイツ法」の国だということを彼らは知っていたからなんですよ。
とりわけ「我らは右条件より離脱することなかるべし」という文言を後ろにくっつけたというのは、これは何ら特別な意思を示すものではなくて、その文言をつけておかないと、日本は「英米法」の国じゃないから「それ、実は知らなかったんだ」という言い訳をしてくるかもしれないので、そう言わせないためにわざわざくっつけて、重ねて注意を喚起してきたということなんです。
向こうとしては「どうしてもこれで戦争を終わらせるんだ」ということを決意しているんだから、あとで「いや~実は日本は『ドイツ法』の国なので、そういうこととは知らなかったもんで…」などとはよもや言わせないぞと、日本に「ポツダム宣言の意図」が必ず伝わるよう、紛れの余地もないようにこの文言をくっつけたということなんですよ。
つまり、連合国側としては「『英米法』では本来必要のない文言だけれども、我々の決意をどうしても日本側に理解してもらわないといけないので、『ドイツ法』の日本でも分かりやすいように、わざわざこの文言を入れたんですよ」というメッセージをポツダム宣言に込めたということなんです。
「ポツダム宣言の意図」を読み取れずに右往左往していただけ
だから我々日本人としては、ポツダム宣言という「契約の申し込み」で示された諸条件に目を移す前に、連合国側があえて「直接方式」を選んだということ自体に、つまり連合国側に戦争終結への並々ならぬ決意があるということを認めるとともに、そこに「日本の存亡をかけて受け止めるべき法的課題が提示されているんだ」という風に受け止めなければならなかったんです。
それなのに、全くそういう風に受け取った形跡がなくて、当時から日本ではポツダム宣言で示された諸条件ばかり注目してきたんですから。
もう本当にどうしようもない。
そもそもポツダム宣言には「これに代わる条件なし」という文言が入っているんだから、連合国側があとで新しい条件を提示してくるとか、天皇に対してどうこうしようとか、そういうようなことを言う余地はすべてなくしてしまっているんですよ。
だから日本としては「連合国はこれを受けさせる以外に道がないということを日本に分からせるために、十分な文言を向こうは用意して腰を据えてかかってきているな」ということをちゃんとわきまえて交渉に臨まなければならなかったのに、それを「無条件降伏」がどうだとか、「天皇制だけは担保されなければ受け入れられない」などとか全く的外れな議論ばかりしていたんですから。
「ポツダム宣言の意図」をちゃんと理解できていないから、「天皇制を維持出来るのか、それさえ認めてくれればいいから…」などと右往左往していたんですね。
そんなことはもうポツダム宣言の中ですべて言っているんですよ。
すべての条件が提示されていたんですから。
だから「天皇のことまでは求めないよ」ということだったんですよ。
連合国にとっても自らを拘束する文言をわざわざ表明したということ
さらにいえば「我等の条件は左の通り、我等は右条件より離脱することなかるべし」というのは、第六条から第十三条に至る諸条件が連合国をも縛るものだということを明らかにしているんです。
そして「…右行動における同政府の誠意につき、適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府にたいして要求す」というのは、「降伏条件」の履行が、日本国政府の「誠意」を基礎としていながらも、連合国による「適当かつ充分なる保障」の下になさるべきことを示した、ということなんです。
これは法的にはどういうことかといえば、「日本の降伏というは、国際協定による『条件付降伏』という実体をもったものなんですよ。ドイツのような『無条件降伏』ではないんですよ」ということなんです。
ましてや「日本を占領する」なんてことは一切求められてなくて、日本国政府がポツダム宣言を受託することで求められていたのは、ただ「軍隊のみ解体します」ということを、日本国政府が連合国に対して保証することだけだったんです。
「本当の敗戦」と戦後日本の不幸
それにも関わらず、「日本国政府には反対提案の余地のない」からと、「宣言を受諾すれば契約が成り立つ」という本来の法律上の性質をも否定してしまうような「法的誤解」がまかり通ってしまったんです。
そればかりか、これは「日本の無条件降伏」だとする風潮がいち早く、ジャーナリズムをはじめ、動かし難しい世論を形成してしまった、ということなんです。
日本側のこのような重大な不注意が、1945年9月6日に出された「連合国最高司令官の権限に関する通達」で「日本の無条件降伏」が強調されるに至った大きな理由の一つになったことは間違いありません。
「我々をこんなにも苦しめた『日本』はこの程度の国だったのか」「日本は立派な『文明国』だからと思って、対等に、礼を尽くして『申し入れ』をしたのに、こんな基本的な『法』のことも分からないのか」「日本が『無条件降伏』だと思ってるなら、そうしてしまえばいい」「とことん占領してやろう。そして二度とアメリカに立ち向かえなくなるように改造してしまえ」という風にね。
だからこれが「第2の敗戦」というか、これこそが日本の「本当の敗戦」だったんではないかとさえ思えるんですよ。
ポツダム宣言への対応を誤ったために、ポツダム宣言に対する正しい認識を持てなかったために、戦後日本は国家としての存亡の危機にずっと瀕することになるんですから。
このことが、どれだけ国民に不幸をもたらすことになったか、ということを考えると当時の指導層連中の責任は非常に重たいんですよ。
確かに、連合国との戦闘に敗けたのはもちろん軍人の責任が大きいでしょうが、「ポツダム宣言の意図」を読み取れなかった学者や官僚、政治家、政府高官などの文官連中の責任というのも決して軽くはないんですね。
そもそも国によって「法」の意味するところは違う
では、なぜ見誤ってしまったのか。
それは「日本の指導層のレベルが低かったからだ」としか言いようがないんですが、まあ単に「日本に『法」だとか『法律』というものを本当に理解している人間がいなかった」ということに尽きるんです。
今でも日本には本当に「法」というものを理解している人間が何人いるのか、はなはだ心許ないのですがね。
特に戦後はずっとそういう状態ですので。
しかし、実は明治維新以来ずっとそうだったのかもしれませんがね。
そもそも日本の法学者で「『法』とは何なのか?」についてしっかり説明できる人がいるんでしょうか、という状態なんですから。
昔、アメリカの国務省の招きで向こうへ行った時、ハーバードロースクールで昼食会に呼ばれましてね。
そこで、あちらの学者さんたちと大議論になってしまったことがあるんです。
その時門まで迎えに来てくれた人が歩きながらいきなり「日本の『法』って何ですか?」って訊いてきたんで、えらく感心したことを覚えています。
日本じゃそんなこと訊いてくる奴なんて一人もいませんでしたから。
で、それに答えて私が色々と話をしたら「ちょっと待て!そんな話は聞いたことがない!」ということになりましてね。
そのうちだんだんと人が集まってきて、色々な人があちこちから口を出してくるんで、しまいには昼食会なんかすっ飛んで大議論になってしまったんです。
議論をしている時にコーヒーを持ってくる奴がいて、そいつがついでに質問をしてくるんで、それに答えたらまた議論になってしまうといった具合でした。
私はどんな時も本音でしか話をしませんから。
こちらが本音で話してやると、向こうも本音で話してくるような感じなんです。
まあ、アメリカ人というのはそういう意味ではとてもフランクなんでね。
それで結局まともな昼食会もできなくなってしまったんで、招いてくれた責任者の人が文句を言っていましたけどね。
そもそも初めに私を門のところまで迎えに来てくれた人がブラジル人だったんです。
それできっとブラジルの「法」とアメリカの「法」というものの違いを意識するようになって、それで「日本の『法』というのはどういうものなんだろう」とでも思ったんじゃないですかね。
アメリカの「法」とドイツの「法」とは
まあ当たり前のことなんですが、アメリカの「法」とドイツの「法」と日本の「法」はすべて違うものなんです。
例えば、アメリカの「法」はどんなものかといえば、それは「手続法」でしてね。
アメリカでは「人間は間違える動物である」ということをまずは受け入れて、その代わり「間違い」を少なくするために、結論を出すまでにいくつかの手順を踏むことにしたんです。
それで、その正式な手順やら手続きを踏んで出した結論については「正しい」ということにしようというのが、いわばアメリカの「法」なんですよ。
そうやって出した答えの方がまだいくらかマシなんだろうというくらいの考えでね。
だからアメリカで「法」というのは「まあそうした方がいくらかマシじゃないか」という、その程度のものなんですよ。
一方、ドイツ人にとって「法」とは「正しい」ということなんです。
ドイツでは「法」のことを「レヒト」と言うんですが、そもそも「レヒト」という言葉には「正しい」という意味があるんですね。
だから、ドイツでは「これは正しい」ということが「法」なんですよ。
「正しい」ということなので、「法」は「善いこと」であり「道徳」なんです。
だからアメリカとドイツでは「法」の意味するところが全く違うんです。
「正しいこと、善いこと、道徳」であるドイツの「法」と、「こっちの方がまだましかな」というアメリカの「法」とは、根本的に意味が違うということが分かるでしょ。
それを東大の有名な法学者でも、「法」と書いた後に括弧してドイツ語で「レヒト」と書いてみたり、英語で「ロー」と書いたりするんですから、「ああこの人はまるで『法』のことが分かってないな」ってことがもう丸分かりになってしまうんですね。
何で日本人がね、ドイツの「レヒト」やアメリカの「ロー」から引っ張り出してきたようなものを日本の「法」として考えなきゃいけないのかっていうことなんですよ。
それは「法」というものの根本を全く理解していないからなんですよ。
日本に馴染まない外国の「法」を使い続ける日本
そもそも日本の法体系はドイツのものを参考にしてこしらえたものではあるんですが、そのために本来の日本の「法」ではない部分がかなりあるんですね。
いい加減なままで来てしまったんですよ。
日本の民法は初めフランスのものを元に作られたんですが、法政大学のあの高いビルは「ボアソナード・タワー」っていうでしょ。
あの名前になっている人はフランス人ですが、その人が自分の国の「法」をそのまま持ってきて日本語に訳しただけなんですよ。
だから日本に馴染まないのは当たり前でね。
しかも、日本の民法は初めフランスのを元にしたけれど、そのうちにフランスが戦争でドイツに敗けたら、それじゃ今度はドイツのものにした方がいいっていう風な具合でやってたんですから、本当にいい加減なんですよ。
それを日本では明治時代からずっと改正しないで使ってきたっていうんですから、おかしいでしょ。
それで日本は「ドイツ法」の国になったんですね。
本当は今の「学問分類」「学問体系」も日本に馴染まない
まあそもそも「学問分類」なんかもカントがやったものなんで、今の学問体系そのものがドイツの考えを元に作られてはいるんですがね。
今の学問の考え方というのはものごとを突き詰めて考えていく上で、優れている点は確かにあるんですが、ただ日本のものを捉えたり、突き詰めていくのにも適しているかといえば、必ずしもそうはいえないとは思いますね。
ものごとをそれぞれ学問の分野ごとに1つ1つ分けて捉えると、その分野のものだけを掘り下げていくには良いのかもしれませんが、ものごとというのは本来すべて繋がっているでしょ。
それを格子状に分けてしまうと、その枠の中から見渡さなければならなくなるんで、どうしても窮屈で視野が狭いものになってしまうんですよね。
特に日本の文化とか精神性(八百万の神、多種多様、拡がりのある世界観)だとかを考える上では、そもそも日本のものは四角四面で凝り固まったようなものではなくて、何でもありで柔らかすぎるくらいのものなんで、そんな枠なんかはいったん取り外して見渡さないと、とても捉えきれないんじゃないですかね。
確かに柔らかすぎていい加減になってしまうところもあるんですがね。
ドイツの国民性を示しているのが「レヒト」
それに比べるとドイツ人っていうのは細かいんですよ。
まあドイツ人というのは、色々と細かいことまで想定して「こんな時はどうする」ということをあらかじめ決めておかないと「動けない」という国民性なんですね。
その代わり決められたことは、きっちりその通りにやるんです。
例えば、この部屋のエアコンの設定は28度にすると決めたら、どんな時でも28度にするという些細なことまでね。
そもそもドイツ人は「森の民族」なんで、質素で贅沢はしないし、純朴で勤勉なんですよ。
融通が利かない面も多くあるんですけどね。(きっとユダヤ人には嫌がられたでしょうね)
こうと決めたらその通りにしないといけないという風にね。
どこかの街では戦争で破壊された街並みを、残っている古い写真を手掛かりにバラバラになった破片をみんなで何年もかけて集めてきて、実際に使われていた建物の欠片の部分をですよ。
それらをひとつひとつ組み立てて、元通りに復元させるっていうことを何十年もかけてやるような人たちですから。
だから「レヒト」も同じようなものなんですよ。
細かいところまで想定して、色々と決まりごとを書いてあるんですが、でもドイツ人にとって「レヒト」は日常のことなんですね。
ドイツ人にとっては、彼らの日常の「正義」のことですからね、本当に身近なものなんです。
でも、日本では外国のものを持ってきてね、これが「法」だというからね、日本人にとってはなじみの薄いものばっかりが「法」になっているんですよ。
ドイツで「法」といわれているようなものを日本人が見ても、何か自分の日常とは全然関係ないものに感じるのは当たり前じゃないですか。
「輸入法学」と法の「解釈学」ばかりの日本
昔は「輸入法学」という言葉を使いましたけどね。
自分の国の「法」を「法律」として規定していくのではなくて、ドイツではこういう文面がどうなっているかということで、ドイツで適用されているものをそのまま、同じようなものを持ってきて日本でも適用させるっていうことでね。
ドイツに留学した奴が、向こうで習ったことをそのまま日本に持ってきてね、「これが法律学だ」ってね。
そんなことをやる馬鹿がどこにいるかっていうんですよ。
だから日本の法学では「解釈学」が幅を利かせているんです。
ドイツのものだから日本の実情に合わなくて、それじゃあ「日本に当てはめるためにはこういう風に解釈すればいいだろう」という具合にやっているだけで、ただの辻褄合わせなんですよ。
そんなことは、ほんの小手先のことにすぎないんで「解釈学」なんてものは学問でも何でもないんです。
だからドイツでも「解釈学」というのは「パンの学問」だと言われているんですよ。
飯を食うためにやるものであって、本当の学問じゃないということでね。
日本では「法哲学」だけが学問だといえるんじゃないですか。
(だから日本では時代によって有力な人の学説が採用されるので、解釈がコロコロ変わる。ちなみに日本の刑法が明治以来ずっと変えられなかったのは、委員会の委員長が毎回反対の学説を唱える人に次を任せるという風潮があったので、結論が出ずに変えられなかったんです)
外国へ留学した連中はそこで勉強してきたものがすべてになっていた
つまりね、「ドイツ法」をやっている人間はそれだけしかやらないでね、ドイツに留学してきた人間でもそこで受け取って帰ってきたというだけで終わってしまい、つまり比較法的な見地がなくて、それが「すべて」になっているんですね。
だから非常に狭い見識になっているんですよ。
なぜそうなってしまうかというと、それはやっぱりね、留学した人たちが「秀才」だったからなんです。
帝国大学ではいわば点数だけで、みんな「優」を取りたくて勉強をやった馬鹿な奴ばかりを教授にしたせいなんですよ。
僕がボン大学に呼ばれて行った時に、大分後になってからですが、そこでかつてここに留学していた鳩山秀夫と穂積重遠がどういう風な勉強をしていたのかっていうのを調べたらですね、向こうの学生と一緒に机を並べて、ただ講義を聴いていただけの単なる「学生扱い」だったんですよ。
「まさか」とは思いました。
それで日本に帰ってきてからは、向こうで色々勉強してきて「新帰朝者」だって言ってたんですからね。
根拠のない西洋への「劣等感」
僕が向こうに行った時に、どうして当時駐独大使をしていた吉野文六さんがわざわざ私のためにね、あんな大使館で晩餐会を大々的に開いて歓迎してくれたのかというと、それまで来た日本人というのは、みんな背中を丸くして、何か講義でも聴きに来るような奴ばかりだったのに、それが今度は教授として「何か生意気な顔をして、偉そうな顔をした奴が来たな」とでも思ったからじゃないですかね。
吉野さんは飾らない人でね。
私の妻は「どこかの田舎の歯医者さんみたい~」なんて言ってましたよ。
普段は股引姿でただガウンを引っかけて出てきたりして、まったく飾り気のない人でしたから。
その時の晩餐会では人をたくさん呼んでくれましてね。
日本人で初めてドイツのケルン放送交響楽団の首席指揮者になった若杉弘さんという人がいましてね。
向こうでは晩餐会を開く時に現地の代表の人を立てるんですが、それを若杉さんにお願いしたりしてね、私をもてなしてくれました。
しかし、どうも日本人というのはみんな向こうに行くと小さい顔になっちゃうんですよ。
明治維新の時にどうも日本人はみんな洗脳されちゃってますからね。
「日本のそれまでのものはすべて遅れていて、欧米のものはすべて進んでいて良いものなんだ」と頭から思い込まされているもんだから、向こうに対して根拠のない「劣等感」みたいなものを持っちゃっているんですね。
向こうの連中からすれば、そうするのが目的だったのかもしれませんがね。
やっぱり我が国は、明治維新についてもっと検証しないといけませんね。
「明治になって良かった」という話ばっかりでしょ。
外国に行っても日本に対する理解を深めようとしてこなかった日本人
まあ外国に行く日本人というのは、向こうのことをお伺いするばかりで、「日本はこうなんだ」ということを主張したり、日本に対する理解を深めてもらうようなことはやらないんですね。
「箸」の話でも、僕がしたら向こうの人はみんな「初めて聞いた」と言ってましたから。
「何で日本人は木の箸を使うのか」っていう話ね。
日本ではナイフとフォークなんてのを使えないと恥ずかしいなんていう風潮があるでしょ。
そもそもあんなのは野蛮人が使うものなんですよ。
フォークなんていうのは、もともと熊手のことでしょ。
不器用な連中が農具で飯を食ってるだけなんですよ。
箸を使えないからあんなものを使ってるんです。
第一、金属だから食器を痛めるでしょ。
そこにいくと木の箸は食器を痛めることはないんです。
日本人はそこまで考えているんだってね。
まあ日本ではあらゆるものに神というか命というか魂というか、そういうものが宿っていて、自分たちと同等のものとして考えるでしょ。
人が作ったものに対してもそうだから、いたわりというかやさしい気持ちを持っているんですね。
日本ではあらゆるものが調和して共存することを良しとするんでね。
それを「和」の心とかいうでしょ。
だから食器に対しても箸が当たって痛むことがないようにと考えるから、箸も象牙や金属じゃあ意味がないんですよ。
そんな話をするとみんな「初めて聞いた」と、それで「よく分かりました」って言ってくれますよ。
「箸」のことだけでも、日本のことを色々伝えることはできるんです。
そんな話もしないで、向こうに行ってきた連中は一体何をしてたのかって思うんですよね。
あんなところで講義だけ聴いて、承ってきて、それで日本に帰ってきたらふんぞり返って「新帰朝者でござる」という調子でいたんですから。
(まあでも、東京帝大の初代総長になった加藤弘之さん(現在の東京大学の直接の前身機関の一つである旧東京大学の法文理三学部の綜理を務め、その後大学全体の長としての総理が置かれた時に初代総理となった)の論文が残っていて、向こうで見たんですが、まあ立派なドイツ語で書かれていてびっくりしましたよ。辞書もない時代に、あんなに立派なドイツ語で書いてあるんですからびっくりしました。明治維新前の教育を受けているからなんでしょうね。)
明治維新以来、日本人はそもそも自国の「法」について検証してこなかった
「法」の話だけに限らないんですが、日本ではいい加減なことばっかりで来すぎたんですよ。
日本の「法」とはどんなものなのかについて、本当は明治維新の前からしっかり検証しないといけないんです。
まあ例えば、書いてあるものだけが「法」とは限らないんですけど、書いてあるものだけでも日本の幕府の制度には「お触書」や「立札」があって、それらをたくさん出しているんです。
だから本当はそれらをもっとちゃんと調べないといけないんです。
「お触書」の量といいますと、「ナポレオン法典(フランス民法の元になっている)」の何倍かくらいの量になるんですよ。
それなのに「ナポレオン法典」なんていうのを金科玉条のごとくに扱っているでしょ。
本当は我が国の「お触書」をよく見てみるだけでも、良い参考になると思うんですが、向こうの人でも。
まあいきなり明治維新で近代になりましたからね。
それで外国の「法」を輸入してきちゃったんで、本来あるべき、日本の「法」はこうなんだというのをすっ飛ばしちゃってるんですね。
「お触書」と「立札」
ちなみに施政者に対して出しているのが「お触書」で、庶民に対して出しているのが「立札」なんです。
日本では物事は慣習的に進められていたんですけれども、特別、何かしらやややこしいことが起こるような場合には、混乱が生じないようにと、その都度例外的に「この時にはこうしましょう」ということを「お触書」と「立札」で示していたんですね。
まあ庶民としては、普段はそういったものには関係なく慣習的なことに従って生活していたわけですけれども。
しかし昔の日本には「法」として書いたものがないだとか、そういったことを言う人がいるんですが、実はそうじゃなくて日本にもあることにはあったということなんです。
武士階級の場合には相続の問題が色々起こったりしますので、そういう問題に対して「お触書」を出したりしているんでね。
そういった江戸時代の「お触書」や「立札」などを通じて、日本の「法」について理解を深めれば、当時の日本人はどういったことを大切にして、どういった社会を目指していたのか、幕府はどうのような国づくりを目指して運営していたのかが分かるんじゃないでしょうか。
みんなもうちょっと日本の「法」について勉強すれば、ドイツの人もフランスの人ももう少し利口になると思うんですけどね。
「成績主義」という「無責任主義」
しかし明治維新が起こって色んなことが、まあ外国にぐちゃぐちゃにされたわけですけれど、ぐちゃぐちゃにされて、でもその中から、近代化した方がいいという方向にばかりいきましたが、本来は一つひとつ修正を加えなければならなかったんでしょうけどね。
修正をしないでただ外国の真似をすることばかりしていましたから、それで随分日本的な良いものが失われてしまったんだと思います。
(夏目漱石はそれを非常に危惧していたんですがね。)
でも実際には、本来の日本の「法」に照らし合わせて修正するといった余裕などなかったのかもしれませんがね。
余裕がないところにですね…、まあ軍人でも何でも成績のいい奴ばかりを用いすぎたんですよ。
それを僕は「無責任体制」「無責任主義」だと言っているんです。
まあ「成績の良い奴を用いたんだからいいじゃないか」っていう風に。
上にいる人間がその人の能力や人格をしっかり見極めるということをしないで、ただ成績だけで判断してしまって「成績が良ければ文句ないだろう」と、人を見極める自分の判断力や責任をすべて「成績」に転嫁して「あとは知らない」というんでしょ。
大学でもそうですわ。
成績さえ良ければいいというような風潮ですね。
しかし、成績が良いとかそういう奴はね、何というかケツの穴のちっぽけなのが多いと思うんですよ。
まあ大学で成績を良くしたいと思うような奴は、相当半端な奴だと思うんですけどね。
しかしそういうのだけ残そうとするでしょ。
そうするとやっぱり大学はくずの集まりになっちゃうんですわ。
私たちの頃は「秀才」というのは本当に「バカ」の代名詞でしたからね。
「秀才」と言われちゃったら、もうどうしようもなくて、救いようのないくらいのものでしたから。
「慣習法」で有名なイギリス式の「三権分立」
本来、日本というのは「慣習法」でやってきた国なんですよ。
「慣習法」で色々とやってきて、それでややこしい問題が起こった時にその都度「立札」や「お触書」を立てて対応するというやり方できたんですね。
まあ、だから今でも実際は「慣習法」的にやっているところもあるんですけどね。
ちなみに「慣習法」で有名な国がイギリスです。
「慣習法」について知る上でイギリスの面白い話があるんですが、イギリスは「三権分立」のはずなんだけれども司法のトップが他のトップも兼ねていたりするという話ね。
行政を行う司法大臣は閣議の時には司法大臣の席にいるけれども、最高裁、向こうでは大審院というんですけど、司法のトップである大審院に行くと、大審院院長の席にはまた司法大臣のそのおっさんがいるんです。
大審院長は司法の関係で一番偉いんですが、じゃあ大審院は独立した司法、裁判所としての体を成しているのかというと、それは立法府である貴族院に置かれてるというわけでね。
司法のトップである大審院は立法府である貴族院に附属しているというんですね。
それで立法府である貴族院の院長というのは院長室にいるわけですが、そこに行くと今度はその大審院長の人がいて、自分が貴族院の院長をやっているというんですよ。
裁判所は立法府に帰属しているんです。
それで帰属している方の大審院長は、大審院にいる時は大審院長の部屋にいるんですが、大審院は貴族院に属しているので、貴族院に行ってその長に会いたいというと、貴族院議長のところにはその大審院長がいるわけですよ。
だから貴族院長もやってるということなんです。
どっちが本職ってことはないんです。
貴族院長であり、大審院長であり、閣議が開かれる時には司法大臣でもあるわけです。
じゃあ「何でそうなっているのか?」って訊くと、それは「同じ人間がやっていないと、何か問題が起きた時にややこしくなるからだ」っていうんです。
貴族院の意見、それから裁判所の意見、そして行政府の意見が違うとややこしくなるので、同じ人間にしているんだと。
これがイギリスの「三権分立」なんですね。
議院内閣制だけど、しかし「慣習法」でやっているので、規定などを書いたものがないですから。
書いたものがあると、ややこしいことを言う人が出てきて困るんですよ。
だから憲法とかも書いたものがないんですが、それで「憲法通りにやってる」というんです。
でもイギリス人で誰もそのことについて不思議だとは思わないから、そんなことを問題にする奴なんて誰もいないんですよ。
日本にはイギリスをお手本にしたはずの「議院内閣制」があるにはありますけど、日本のものとは全然違うものでしょ。
明治時代に日本からたくさんの人が色々イギリスに見学しに行ったはずですけど、一体何を見に行ってたんですかね。
本当にイギリスのものを真似たのかしらと思うくらいで、まあ日本では形式的なことばっかりやってねえ、万事中身が伴っていないんですよ。
イギリス式の論理
イギリスっていう国もまあ面白いでしょ。
あっけらかんとしてるところが面白いんですよ。
昔、バルフォードという外務大臣がいて「バルフォード宣言」というのを出したんですけど、イスラエルを国家として認めるだけではなくて、パレスチナも国家として認めると言っちゃうんです。
イスラエルに向かっては「イスラエルを国家として認めるが、パレスチナは認めない」と言って、パレスチナに対しては「パレスチナもちゃんと国家として認める」って言ったに違いないんですよ。
あっちにもこっちにも矛盾するようなことを平気で言うわけで、イギリス式の論理をもってすれば別にまったく嘘をついているわけでも何でもなくて、相手にとって都合の良いことを認めておけば、どちらに対してもカドが立たないからという風にね。
だから皇太子にも「Prince of Wales」という称号を付けたりするでしょ。
それでウェールズをなだめているわけですよ。
しかし、簡単に言うとデタラメ風ですけどね。
まあ「看板なんて別にどうだっていいじゃないか。実を獲ればいいんだから。表立ってまともな看板をあげたりしても、ロクなことにならないじゃないか」っていう式で、だからそう言っとけっていうことだけなんですよ。
イギリス式の統治
それで戦後、自分の所の植民地はみんな独立したんだけど、あそこのクイーンはちゃんとオーストラリアに行ってもニュージーランドに行っても、カナダに行っても、どこ行ってもやっぱりクイーンで通ってるわけでね。
まあ、それだけの手は打ってあるんでしょうけどね。
でも、それはかなり大変な労力がいるんだと思いますよ。
あの王室を維持するためには。
エリザベス女王は本当に賢くもあるし、努力家でもあるし、まあ大変な人ですけどね。
あれだけ植民地をいっぱい作って、日本的に言えば悪いことをたくさんやってね、アフリカも切り刻んじゃって、さんざん今の揉め事の元を作ってね。
今世界で揉めていることの多くは、そもそもイギリスが元凶であるような問題が本当に多くて、でもそういう中で生きていくためには、もう脛に傷がありすぎて、いわばイギリスなりの「三権分立」のやり方じゃないと乗り越えられないということなんじゃないですかね。
公明正大とか潔白さにこだわっていられないですよ。
インドだって会社を作ってインドの面倒をみさせるくらいですから。
東インド会社がやったんであって、イギリスは直接関わっていない風にしてね。
会社が勝手にやっただけで、そこの取締役会が色々な問題を扱ってやったわけでしょ。
それで日本でも同じようなことをやっていたんじゃないですかね。
グラバー商会かなんかにやらせておけばいいっていうことで、色々とエサをまいて、それに集まってきた人たちを使ってね。
渋沢栄一やら誰やらに、メンバーシップを与えてやってやらせるとかね。
それでいて日本人は「渋沢栄一は300以上の会社を作った偉い人だ」とか言って、今度はお札にもするっていうんですから人が良すぎるんじゃないですか。
イギリスでも面白がっていると思ってますよ。
外国の「法」が日本に馴染まないのは当たり前
話が大分逸れましたが、要するに日本の「法」でない外国の馴染のないものを持ってきて「これが日本の法です」なんてやってるのが実情なんですよ。
無理やり向こうのものを日本に持ってきて、それを無理やりあてはめようとするから、日本人にとって「法」というのは何か難解なものになっているでしょ。
だから今の「法」はそもそも日本人の文化や生き方にそぐわないんですよ。
憲法だけの問題じゃあないんです。
民法は初めフランスのものを持ってきたといったでしょ。
それで明治の時に、そのことをはっきり指摘している人はいるんですよ。
明治から大正時代にかけて法学者をしていた穂積八束という人。
この人は「民法出デテ忠孝亡ブ」という有名な言葉を残していますからね。
「足入れ婚」の風習に見られる日本の生きた「法」
日本の「法」について考えるうえで、「足入れ婚」の風習というのが、いい例になると思うんですよ。
※「足入れ婚」:嫁入り婚の一つの方式で、形からいうと婿入り婚に近い。現在嫁入り婚とよばれているものは、嫁が夫のもとに移り、夫の家で生活が行われるものであるが、足入れというのは、最初婚姻の行われるのは嫁方で、以後嫁の引き移りまでの間、夫が妻のもとへ通う様式がとられている。この期間は婿入り婚的な形をとり、ある期間を経て、妻は夫の家に移る。つまり婚姻の成立と、嫁の引き移りとの間に、ある程度年月があるのであって、このなかには伊豆の島々のように、嫁は主婦となる日、すなわち夫の母が亡くなってから、家の主婦として引き移るという習わしもあった。
現在アシイレとよばれる結婚はほとんどなくなっているが、しかし老年の婦人のなかにはアシイレで嫁にきたと語る人も多い。その場合、いささかの躊躇(ちゅうちょ)もなく語るのは、どこでもごくありふれた方式であったためであろう。アシイレのほかデイリソメ(出入り初め)、アユミソメなどの名称もあり、またハシトリ(箸トリ)、一晩ドマリなどともいうが、これらのなかには夫と妻との年回りとか、忌中であるとか、または経済的理由もあって披露の宴を延期したり、簡略にする場合もあった。なかには試験婚のような形で嫁を引き取る例もあって、世間の指弾を浴びることもあった。
「足入れ婚」をしてみて上手くいかなかったら「なかったことにしましょう」ということで、地域ではみんながそうしているということでね。
生きていくための知恵ですよ。
「あの人は一度失敗してね」なんてことをきちきち言ったって、誰も得しないですからね。
だからそんなことは「なかったことにしましょう」という、そこの地域にいるみんなの「合意」がなされているということが大事で、これこそが「法」なんですよ。
書いたものがあるわけではないんですが、これこそがみんなの「合意」を元に守られているいわば「法」であって、これが「慣習法」なんですよ。
「道徳」とまではいわないけれど、これがみんなが生きていくために、先祖代々これまで積み重ねてきた生活をしていくための知恵をもとに醸成された「慣習法」というものであり、これこそがそこに暮らす人たちにとっての生きた「法」になっているんですね。
熊本にも「足入れ婚」の風習があったことを示す民謡「おてやもん」
ちなみに僕はこの「足入れ婚」というのは東北地方だけにあったのかと思っていたら、「おてもやん」という民謡が熊本にもあったんですよ。
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ピーチク パーチク ひばりのこ♪
[一番の歌詞]
おてもやん あんたこの頃
嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこつぁしたばってん
ご亭どんが ぐじゃっぺだるけん
まあだ 杯ゃせんだった
村役 鳶役 肝煎りどん
あん人たちの おらすけんで
あとはどうなと きゃあなろたい
川端町っつあん きゃあめぐろ(曲がろうたい)
春日ぼうぶらどんたちゃ
尻ひっぴゃあて(ふっぱって) 花盛り 花盛り
ピーチクパーチク ひばりのこ
げんぱくなすびの いがいがどん
[歌詞の意味(現代語訳)]
おてもやん あなた最近
お嫁にいったんじゃなかったの?
嫁入りしたにはしたんだけど
旦那が痘痕(あばた)で酷かったから
まだ式はあげてなかったのよ
村の役付きや火消し役、世話役
あの人たちがいるから
あとはどうにかなるわよ
川端町の方へ廻って行きましょ
春日のカボチャ達は 尻を出して
花盛り 花盛り
ピーチク パーチク鳴くひばり(雲雀)の子
醜いなすびのイガイガ達
*「おてもやん」の意味は?
仲井幸二郎「口訳 日本民謡集」(蒼洋社)によれば、「おてもやん」の「ても」は、下働きの下女を意味する「テマ」が訛ったもと解説している。
「お」は丁寧語、「やん」は身分の低い者への呼称・愛称であることから、「おてもやん」は「女中さん」といった意味合いに解釈できることになる。
これ以外にも、肥後の女性全般を指す言葉とする説や、 「ても」とは「つくね芋」を意味する「手芋(ていも)」のことだとする説など様々ある。
*ぐじゃっぺだるけん
「ぐじゃっぺだるけん」については、「ぐじゃっぺ」と「だるけん」の二つに分けて考える必要がある。
まず「ぐじゃっぺ」とは、ネットで調べた限りでは、「天然痘のあと」、「あばた顔」、「醜い顔」といった意味合いがあるようだ。「頼りない」「頼りにならない」という訳を当てる解説も見られた。
「だる」は「である」、「けん」は理由を表す「だから」。「だるけん」全体で「~だから」の意味になる。発音的には「だーけん」に近くなるようだ。
*カボチャ以降の歌詞について
ぼうぶら(カボチャ)以降の歌詞については、単なる現代語訳では意味がとおりにくく、ある程度の意訳や補完が必要になってくる。
ネットで調べていくと、主人公の女性「おてもやん」が見栄えの悪い男たちをうっとうしく感じてる様子として解釈するケースが多いようだ。
なお、ピーチクパーチク以降については、一番の締めくくりのお囃子(おはやし)としての意味合いが強く、1番の歌詞本文とは意味上のつながりはないと考えられる。
ただ、ここもあえて本文と意味をつなげて解釈してもそれは聞き手の自由であることは言うまでもない。
*げんぱくなすびとは?
「げんぱくなすび(茄子)」の意味については諸説あるが、「解体新書」で知られる江戸時代の蘭学者・杉田玄白が広めたナスとする説がネットで散見される。
他には、「げんぱく」を「気持ち悪い」「吐き戻す」などを意味する方言として解釈し、げんぱくなすびを「見た目の悪いナス」として説明を試みる考えもあるようだ。
また、げんぱくなすびとは「イガナス(朝鮮朝顔)」(上写真)であると説明する書籍もある(写真の出典:ブログ「野草が好き」)。
イガナスは曼荼羅華(マンダラゲ)とも呼ばれるナス科の植物で、江戸時代に華岡青洲(はなおか せいしゅう)が麻酔薬の原料に用いたことで有名。
イガナスの実はいがぐりのようにとげとげしい見た目なので、歌詞の最後の「いがいがどん」とも自然な流れでつながり、「気持ち悪い」の意味の「げんばく」としても意味が通る。
[二番の歌詞]
一つ山越え も一つ山超え あの山越えて
私やあんたに 惚れとるばい
惚れとるばってん いわれんたい
追々彼岸も近まれば
若者衆(わきゃもんしゅう)も寄らすけん
くまんどん(熊本)の よじょもん詣りに
ゆるゆる話を きゃあしゅうたい
男振りには惚れんばな
煙草入れの銀金具が
それもそもそも因縁たい
アカチャカベッチャカ チャカチャカチャ
[歌詞の意味(現代語訳)]
いくつも山々を越え
私は貴方に惚れている
惚れてるからこそ言えない
やがてお彼岸も近づいてきて
若者たちも集まってくる
熊本の夜聴聞(よじょもん)のときに
ゆっくり話をしてみたい
見た目で惚れたわけじゃない
煙草入れの銀金具に惹かれただけ
(アカチャカ…は意味のない囃子詞)
*夜聴聞(よじょもん)とは?
「夜聴聞(よじょもん)」とは、夜にお寺で行われる説教・説法を聴く会のこと。住職のありがたい法話を聴くという建前の下、男女の出会いの場としても機能していたようだ。
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嫁入りしたといえばしたんだけれど、公に結婚したわけではないと。
公にする時には杯(さかずき)はするけど、今はそういう状態なわけで…という歌ですから。
同棲してお互いにそういう関係にはなってはいるんだけど、まだ杯はせずに、みんなにはオープンにしてないよということです。
それでうまくいくようだったら杯をしてみんなにオープンにしていくつもりだし、うまくいかなかったらそれはなかったことにするということなんです。
だから「足入れ婚」は何も東北地方に限ったことではなく、九州の方でも同じようなことが行われていたんだということなんで、それで大事なのは、そこに暮らす地域の人たちがみんなそういうやり方を認めているということですから。
これこそ「慣習法」であり、「婚姻」に関する「法」だったわけです。
だから後になって「いや~あの時は結婚してこれこれだったのに…」とかいったようなことは「なかったことにしましょう」という仕掛けになっていたということです。
うまくいき始めたら、みんなにオープンにして一杯やるというんですね。
まことに合理的で賢いやり方です。
それでもしうまくいかなかったら「いや~本当は、実は、あそこで誰と誰とが関係があって…」などということはみんなで「なしにしよう」という「合意」があったわけです。
この「合意」が「法」としてその地域の人たちを支配していたわけです。
「愛」がありますよね。
この「合意」をあからさまではなく、「おてもやん」という民謡にして、子供でも誰でもみんなにとってなじみやすいものにしていたのもいいじゃないですかね。
日本の「法」というものを、こういう風に掘り起こしてみると分かりやすくなるんじゃないでしょうか。
今の日本でも、こういうことで苦労している人がたくさんいるんでしょうから。
「能」の世界における「合意」も日本的な「法」である
これはある意味、芝居の「黒子」と一緒なんですよ。
能でも「黒子」がいて鼓を持ってきたり、衣装を替える手伝いなど色々なことをするんだけれど、そういう手伝いをしてくれる「黒子」は「いなかったことにする」というのが、「能」の世界ですから。
「黒子」は舞台の上で目立たないように黒い服を着てはいますが、実際にはみんなに見えてますよね。
でも能の世界では演者も客もお互いに「いないことにしましょう」という「暗黙の了解」というか、「約束」が成り立っているんです。
演じる側と観る側との間で、そういう「合意」がなされているということであり、これがいわば「能」においては「法」なんですね。
それで「能」の世界では「黒子」はなくてはならない役割を果たしているんです。
そもそも日本には「大事なことは書かない。大事なことは言葉にしない」という古来からの文化の特徴があるんですね。
書いてないことの方が大事だという文化です。
「何が書いてあるのかではなくて、何が書かれていないのか」が大事
特に刑法なんていうのがそうですが、男女の問題でもそうですよ。
「国家権力が介入しなければならない問題は何か」という点が刑法のポイントですからね。
それはそこの慣習に任せておいてもいいんじゃないかっていう問題もいっぱいあるんですよ。
ただ、慣習というのは書かないものですが、慣習が分かっていないと書いてある法をちゃんと読み解いたり、運用することができないでしょ。
男女の問題でいえば、国家権力を行使して刑法上の問題として何か、その「不倫」の問題とか何とかっていうのも…昔の姦通罪みたいなもんですしね、う~ん、そういう問題かっていうこともありますしね。
慣習というものは法として明文化はされていませんが、長い年月をかけて日本人が培ってきたものであって、合意がなされているものですから、日本社会の法であることはもちろん、文化でもあるわけですから。
そして日本の文化であり、外国の言い方でいう日本の「哲学」というものは、前からお話しているように、日本では古事記や源氏物語などの物語の中にあるんですね。
しかも物語の中にしっかり書かれているかと言えばそうではなくて、「大事なことは書かない。大事なことは言葉にしない」ので、「何が書いてあるのかではなくて、何が書かれていないのか」が大事であって、行間や余白の中に詰まっているんですね。
外国人や今の日本人にも分かるように日本の文化や哲学を体系化することが大事
だから本当は、日本人は日本の文化の中からそういったものを、外国人でも分かるように、物語として存在したものを体系として示すことが必要なんですね。
それが本来の学者の役割だと思うんです。
できなければ外国人の導入を図るとかしてもいいでしょう。
そして誰もがはっきり分かるように、日本の文化や哲学を明文化して体系化すればいいんです。
それができないから外国人には日本にはしっかりした哲学や文化がないと卑下されてきたわけで、もし体系化できれば日本の安全保障にもつながるんです。
外国人だけでなく今の日本人にも分かりにくいものになっているんじゃないですか。
日本の文化や哲学をある程度体系化することができれば、日本の「法」についても、それらと照らせ合わせながら、これは法律という形にしなければならないものかどうか、どこまでは慣習法のままでそれを適用した方がいいのかということが分かりやすくなっていくんですよね。
だから日本人はよっぽど考え直さなければならないんですが、そういうことを誰もやらないんですよ。
これは何も法律だけでなくて、学問全部に通じることなんですよね。
文語体が読めない日本人ばかりじゃ根無し草と同じ
ただ、これをやるにはみんな文語体から始めないといけないですがね。
昔の文章が読めないとダメですから。
それでなぜ今自分がここに至っているのかというところを、捉えていかないとただの根無し草ですから。
自分というものがどういう仕掛けで、どこから自分になっているのかとかね。
だから、法というのは本当に大事なことなんですけどね。
日本の哲学や文化に基づいた国づくりにもつながっていくことなんで。
どういう秩序を作っていくのか、どういうことを良しとするのかというね。
1週間から2週間で日本国憲法を作ったとかいうことも含めて、今の憲法の素性というものをだんだんと明らかにしないといけないですね。
9条がどうとかこうとかに関わったような議論ばかりしていても埒が明かないのが分かるでしょ。
法というものが一体どういうものなのかを分かってないから、盛んにああいったことに引っ掛かってみたりするんですよ。
まあいわゆる日本国憲法というものに限らず、大日本帝国憲法から民法から、法律というものの多くが一気に輸入されてきましたから、本来日本において「法」というものがどういうものなのかということがおざなりにされたままなんですね。
学問と一緒ですね。
ブレッドサイエンスといって、パンを食うために法律の勉強(法の解釈学ばかり)をして、飯の種にするというだけのものになっちゃってるんですよ。
そうすると法律家にとっては、たくさん争いがあった方がいいということになりかねませんから。
本当はそういうことから考えて作り替えていかないといけないんですがね。